『ウイルタ ゲンダーヌ ヌチーカ トリチビ(ウイルタ・ゲンダーヌの小さな夢)』

ゲンダーヌさんがウィルタ語で行った報告『ウイルタ ゲンダーヌ ヌチーカ トリチビ(ウイルタ・ゲンダーヌの小さな夢)』の記録です。

報告店ができあがるまで

1.今年一月、日教組第26次、日高教第23次教育研究集会に「北方少数民族の復権運動と文化の保存継承
について」を報告した(報告者ウィルタ 北川源太郎、網走南ケ丘高校田了)。特別報告としてゲンタ ーヌがはじめてウィルタ語で訴えた。分科会助言者の一人、森田俊男氏はゲンダーヌの「訴え」を次のように紹介している。

ウィルタ人 北川源太郎の訴え
一九七七年一月の埼玉教研の「平和教育」分科会のひとつの圧巻は、少数民族ウィルタ人(オロッコはそ のアイヌ語による命名)の北川源太郎氏が、田中了正会員(高校美術教師)の通沢で、少数民族抑圧と同 化をきびしく批判し、ウィルタ民族としての誇りに立って、ウィルタ文化の継承、保存にとりくむことを 訴え、決意をのぺたことであろう(くわしくは「日本の教育」第26集をみよ)。―平和教育、特集5、 明治図書刊。

2.その後、五月四日、北見市で開かれた「民衆史堀りおこし交流集会」で、妹I子さんと参加したゲン ダーヌは、再びウィルタ語で訴えた。
『ウィルタの若者を返せ』語り始めた被抑圧者たち ―の見出しで朝日新聞>文化の窓くは、この日の 集会を次のように報じた。
「天皇の命令で狩り出され、死んでいったウィルタ(オロッコ)の若者たちを返せ」―新憲法施行三十 周年を記念して四日、北見市で開かれた第二回民衆史掘り起こし交流集会で、ウィルタの文化を守るため に立ち上った網走市在住の北川源太郎さん、I子さんの兄妹は、壇上からウィル夕話でこう叫んだ(中略)。この日の主賓は、長い間不当な差別に苦しめられたアイヌ、ウィルタ••••••最後に、北川兄妹がウィルタ協会事務局長、田中了さんの通訳で「戦争中、特務機関員として徴兵され、そのために八年間シべリアに抑留された。しかし厚生省は私を日本人とも軍人とも認めようとしない。私は日本人で生きること よりも、ウィルタとして生きることを決意した。それはウィルタの文化を守るためだ。天皇よ、死んでい ったウィルタの兵を、若者を返せ、生きて返せ」(後略)―5月16日付朝日、編集委員、上田満男。

3.今年7月、松前で開かれた第24回歴教協全道研究集会(秋田・全国大会)に、ゲンダーヌは報告書「ビイ ハプシウィ」(私は訴える)をウィルタ語で報告。報告者名も従来の北川源太郎から、ダーヒン ニェニ・ゲンダーヌとした。本来の姓名に戻し、名実ともにウィルタ語で報告書をまとめたことは画期的 なことである。集会には妹のI子さんと一諸に民族衣装を着てウィルタ語で訴えるゲンダーヌ。三年前までは凡そ想像も 出来なかった変り方である。ゲンダーヌは言う、「私たちの場合、アイヌがアイヌとして胸を張り、部落 の人が私は部洛民だ、と名のるより、もっと難しいのではないでしょうかと。戦前、アイヌよりもっと低度の悪い「土人」として蔑視され、戸籍すら与えられなかった。
ブゥ オユウカ ナアンニエニ カラフトド クウイ ジヅダァ オルキ ドジンウェマリ

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『ウイルタ ゲンダーヌ ヌチーカ トリチビ(ウイルタ・ゲンダーヌの小さな夢)』” に対して1件のコメントがあります。

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